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本照寺だより 抜粋

死を迎える空間 その2

死を考えることは、より良く生きることへの一歩そのもの

■世界19言語に翻訳されている「雨ニモマケズ」や、「銀河鉄道の夜」で有名な宮澤賢治は、法華経に心酔(しんすい)し37年間の生涯を終えるのですが、最期の彼の言葉、それは「ああ、いい気持ちだ」―でした。
賢治からその言葉が出たことは、賢治が自分自身の人生を「自己肯定(じここうてい)」できたからに他ならない、と思うのですが…

■さて、私たちが死を迎える時はきっと、不自由な身体で病院のベットに横たわっていることでしょう。
ではその限られた狭い空間は「悔いを残す空間」となるのでしょうか?
はたまた「心を満たす空間」となるのでしょうか?
どうぞ、他人事(ひとごと)としてでなく、自分が今、死を迎えようとして横になっている姿を想像してみてください、その想像が、とても大事なことなのです(「先ず臨終のことを習いなさい。他のことは後でいいのですよ」…日蓮聖人。「私が死を考えるのは死ぬためではない、生きるためだ」…マルロー・仏の作家、政治家)。

2つの選択肢があります。「悔いを残す空間」、或いは「心を満たす空間」か。
亡き相田みつおは「幸せはいつも自分の心がきめる」と言いました。
そう、「悔いを残す」と「心を満たす」という2つの選択肢は私たちの手の内にあるのです。
ではこの2つの選択肢の違いとは一体、どこからくるのでしょうか。
それはやはり、回想する人生が前述した「自己肯定」となるのか、或いは「自己否定」となるのか、でしょう。

■では、「自己肯定」、との生き方とは一体、どういう生き方なのでしょうか。
それは一言すれば感謝心から発せられる利他(りた)(他者のために生きる・働く)であり、宮澤賢治の生き方のような「世のため人のため」かと思います(「世のため~」は少し安っぽく聞こえますが、得てして真理は単純です。ここに動物とは違う人間としての偉大さがあります。近年聞かれなくなり残念です)。
 社会への貢献、奉仕。会社や地域、人様のお役に立つといった利他……そういった「人のために生きることができた実感」や、「社会に必要とされる自分」「他に認められる自分」といった実感が、「自己肯定感」を呼びます(自己否定は自殺や殺人へと向かうことがあります)。

■戦場で重傷を負った兵士が、「お前はよくやった!」との仲間の言葉に、ニッコリ笑みを浮かべて頷(うなず)き、満足げに「ありがとう…後を頼む」、と言いつつ逝った、といったことをある本で読みましたが、これも正に「自己肯定感」だったはずです。
 私たちも、「肯定」できる我が人生を振り返り、切にそれを実感しつつ、そして満足しつつ、人生の店じまいをしたいものです(例外的な職業を除いて、それぞれの職業はもちろん、「お役に立って」います。念のため)。