本照寺は行学院日朝上人の開山であります。上人は身延山久遠寺・第11代の山首であり、身延山中興の祖と仰がれています。また、眼病守護の神として有名であったのは上人の徳化の一端を示すものであり、当時の人々が「今・日蓮」との称をもって上人を呼ばれたいわれも納得せられるでありましょう。
今、神奈川県愛甲郡制誌によって「本照寺記」を見ると、「字、下古沢にある日蓮宗の寺で、甲斐国、巨摩郡久遠寺の末寺である。開基は、身延山久遠寺11代・行学院日朝上人であるが、旧記等皆焼失してしまったため、不明である。境内は約1万坪あって、内に7間半に6間半の本堂と 、9間半に7間半の庫裡と山門とを具え(中略)寺領としては慶安2年、徳川幕府から8石の朱印を下附せられたが、明治4年上知となったものである」と、記されています。
■島谷 晃(しまや・あきら)画伯の略歴
上人が本照寺の開山となられたのは、上人が村内に来られたことによります。
すなわち小鮎村、飯山金剛寺(当時は真言宗)が一切経を蔵していたことにより、これを閲覧しようとして鎌倉から来られ、時の金剛寺住職・常栄法印と法論を交わし、常栄法印は日朝上人の説く法華経の教義に心服し、金剛寺を出でこの法華経に帰依しました。
これによって常栄法印は上人から学明院日祐の名を賜わりこの本照寺を建てたことに始まります。
そうして学明院日祐上人は師である日朝上人を開山と仰ぎ自らは第2世として法統相続を願われたのであります。本照寺の山号・常栄山は常栄法印のふた文字を表しています。
日朝上人は、静岡県伊東市宇佐美のご出身で、8歳の時、三島本覚寺の日出上人が霊夢により、この子の資質のなみなみならぬを見込み、日朝上人のご両親を説得して弟子として鋭意訓育せられました。
日朝上人は、幼時から日蓮大聖人のお生まれ代わりと称せられ、学識才能抜群であったと言われています。